イライラしない子育てをする方法 ―課題の分離という考え方―

わが家のトイレ。
わが家のトイレ。このアンパンマンには、とてもとてもお世話になってます。
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子育てのイライラはコントロールできるはず

ビンボーパパです。
家にアリが大量発生してます!侵入経路と発生原因がよく分かりません…。まるで「進撃の巨人」における巨人のようです。奥さんは虫が大嫌いなので、とりあえず、家の中で見つけたアリを片っ端からdysonで吸いまくっています(笑)。

私がこのブログを始めたきっかけは、「嫌われる勇気」を読んだことでした。「嫌われる勇気」には、怒りの感情について触れている場面があります。

まとめると、次のような内容です。
人は怒って大声を出すわけではなく、大声を出すために怒る。つまり、人は「ついカッとなって」怒るわけではなく、何か目的があり、その手段として怒るのである。怒りの感情が目的ではなく手段である以上、怒りとは違う手段を使うことができるはずだ
詳しくはこちら。↓

「人は怒りに駆られて大声を出すのではない、大声を出すために怒るのである。」これは、ビンボーパパが衝撃を受けた「目的論」という考え方です。「目的論」とは何か?なぜ「目的論」という考え方を理解しなければならないのか?…

そこで、私はこう考えました。
怒りの感情がコントロール可能ならば、子育ての場面でもイライラせずに済ませる方法がきっとあるに違いない。ならば、その方法を探してみよう。せっかくだから、これをブログにして発信しちゃおう。
^ ^

というわけで、こうやっていろいろと記事にしています。子育て関連の記事ばかりではありませんが…。
(^^;;

今回のテーマは、課題の分離
これは、「嫌われる勇気」を貫く重要な要素のひとつです。ビンボーパパは、イライラしない子育てを実践するための方法の一つとして、課題の分離が使えるんじゃないかと考えました
ちなみに現実では、私は息子ちゃんと娘ちゃんにイライラして怒りまくっています。理想と現実は違うんですね…。
それについてはこちら。↓

ビンボーパパは、育児・家事・仕事で毎日がてんてこ舞い…。まるで先の見えない綱渡りをしているようです。そして私は子どもたちに対して、まあよく怒ります。朝5回、夜15回、足して一日20回くらい…(笑)。それでは、いったいどんな時に怒るのかというと…

イライラしない子育てをするために ―課題の分離、という考え方―

「嫌われる勇気」を読んだことがない人、アドラー心理学を知らない人にとっては、チンプンカンプンだと思います。わたしもチンプンカンプンでした。
「嫌われる勇気」には、課題の分離について次のように書いてあります。

たとえば、なかなか勉強しない子どもがいる。授業は聞かず、宿題もやらず、教科書すらも学校に置いてくる。さて、もしもあなたが親だったら、どうするか?

このように「勉強する」という課題があったとき、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」と考える。子どもが勉強するのかしないのか。あるいは、友達と遊びに行くのか行かないのか。これらは本来「子どもの課題」であって、親の課題ではない。それに対して親が「勉強しろ」と言うのは、他者の課題に対して土足で踏み込むような行為である。

私たちは「これは誰の課題なのか?」を考えながら、自分の課題と他者の課題を分離する必要がある。そして、私たちがやるべきことは、他者の課題には踏み込まない、それだけである。

誰の課題かを見分けるには、「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えればよい。

(p.139〜141)

目の前の物事に対して「これは誰の課題なのか?」なんて、考えたこともありませんでした…。アドラー心理学って、いろいろと興味深いことを私に教えてくれます。

トイレに行くか行かないかは子どもの課題。親の課題ではない

これを子育てに当てはめると、どうなるんでしょうね?例えばわが家の場合。

うちの息子ちゃん(4歳)は、なかなかトイレでうんちをしたがりません。
というのも、彼はなかなか頑固な便秘体質なんです。だからうんちが硬くって、出す時にきっと痛むんでしょうね…。気張っていても「うんちじゃない!」と言い張り、是が非でもトイレに行こうとしません。そしてうんちが4日くらい出ないと、だんだん様子が変わってきます。しょっちゅう気張る。走らなくなる。すぐ「抱っこ―」…。ちなみに一週間くらいうんちが出ないと、もう往生してしまいます。病院に行って浣腸ですね。浣腸してもらうために病院に行った思い出は、一度や二度ではありません。
まあとにかく、彼は便秘体質なんです。そしてトイレでうんちをしたがらないんです。

その態度に、私はイライラし始めます。
「うんち行きたいんじゃろ?おとなしくトイレ行きんさいやぁ!」

そして、その時の私はこう考えます。
「子どもの排便を促して、規則正しい生活習慣を身に付けさせるのが親の義務。だから意地でも出してもらわなば。」
文字通り、意地でも息子ちゃんをトイレに連れて行きます。無理やり抱っこすることもあるし、強い口調で歩かせることもあります。そして、頑張ってうんちを出させます。
でも、本人は痛い思いをしてうんちを出すのが嫌だし、親にイライラしながら命令されるのも嫌なはず。

こんな場面で、彼はよく泣いていました。
私は、子どもが泣いても喚いても譲らない人間なので、彼は、自分が泣いたところでどうしようもないことは分かっていたと思います。でも、とりあえず泣いていました。よっぽどトイレが嫌だったんですね…。
今になって思い返せば、本当に申し訳ないことをしてしまったと後悔しています。私が息子ちゃんの立場だったら、やっぱり嫌ですもん…。そりゃ泣きたくもなります。

この場を借りて謝ります。息子ちゃん、ごめんなさい…。

そんな折、「嫌われる勇気」を読んで「課題の分離」という考え方に出会った私は、色々と考えます。

・トイレに行くか行かないかは、果たして誰の課題なんだろう?
・親の課題なんだろうか?
・「トイレに行かない」という選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰なんだろう?
・親なのか?…それも確かに一理ある。だって、便秘で往生した息子ちゃんを最終的に病院に連れて行くのは父親である私なんだから。
・でも…それよりも、一番辛いのは息子ちゃん本人じゃなかろうか?
・だとしたら…「トイレに行くか行かないか」は息子ちゃんの課題なんだろう。

子どもの課題に土足で踏み込まない。必要なのは見守ること

そこから、私は考え方を少しずつ修正していきました。つまり、「トイレに行くか行かないか」は息子ちゃんの課題なんだ…と考えて、イライラしない子育てをするように努めました。

そこで、さっき引用した「勉強する」という課題について、続きがあるので書きます。

青年:じゃあ、子どもがまったく勉強していなかったとしても、それは子どもの課題なのだから放置しろ、と?

哲人:ここは注意が必要です。アドラー心理学は、放任主義を推奨するものではありません。放任とは、子どもが何をしているのか知らない、知ろうともしない、という態度です。そうではなく、子どもが何をしているのか知った上で、見守ること。勉強についていえば、それが本人の課題であることを伝え、もしも本人が勉強したいと思った時にはいつでも援助をする用意があることを伝えておく。けれども、子どもの課題に土足で踏み込むことはしない。頼まれもしないのに、あれこれ口出ししてはいけないのです。

(p.142)

課題を分離してそこで終わり、ではないんですね。
むしろ、課題の分離がすべての始まりである、という旨が「嫌われる勇気」には書いてあります。課題の分離とは放任主義を推奨するものではない。でも、他者の課題に土足で踏み込むこともしない。なんだか、うまくバランスを取るのが難しそう…。そんなことが書いてあります。

課題の分離を実践してみた

これを息子ちゃんのトイレの例に置き換えると…

・「トイレに行くか行かないか」は息子ちゃんの課題である、と本人に伝える↓
「あなたがトイレでうんちせんかったら、またしんどくなるんよね?浣腸せんにゃいけんくなるよね?」
「じゃあ、そうならんように、毎日トイレに座る練習をしてみない?」

・あとは見守る。本人にとって必要なときは、援助をする。↓
まだトイレに座る習慣は身についてないので、そこは私の出番。「トイレ行く?」と誘います。お願いでも命令でもなく、あくまでも誘うだけです。
「トイレに行きたいけど、歩くのはいやー」って時は抱っこする。
補助便座を片づける時とか、脱いだパンツを履く時とか、「パパやってー」と言われたら積極的に手伝う。

・本人がトイレを嫌がるときは、無理強いしない。

私が実践しているのは、これくらいです。
あ、生活習慣としての便秘対策は忘れちゃいけませんよ!mustです!!
(・_・;)

ちなみに、私が実践している便秘対策は…

・朝起きたら、一杯のお茶を飲んでもらう
・一日一食はヨーグルトを摂る
・バランスの良い食事(なかなか難しいです…)
・毎日必ず、できれば決まった時間にトイレに座ってもらう(基本的には朝、朝座る時間がなければ夜)

こんな感じです。
おかげで、今はほとんど毎日うんちが出てくれています。生活習慣としてトイレに行くことが少しずつ身についているようで、「あ、もうトイレの時間ね」と私が言うと、一人でスタスタとトイレに向かっています。
^ ^

課題の分離について思うこと

課題の分離を意識することで変わった(気がする)のは、私の考え方・気持ちのあり方です。

私が子育てに厳しかったこともあり、以前は、事あるごとにいちいち子どもたちに口出ししては、うまくいかないことにイライラしていました。課題の分離を意識し始めてからは、それが少し変わりました。↓

「彼ら(子どもたち)には彼らのやり方がある。私はそれに口を出しすぎた。私にできること(求められること)は、子どもたちを適度な距離を保って見守り、必要に応じて援助すること。見守りと援助、ただそれだけだ。」

こう考えるようになってからは、なんだか以前よりカリカリしなくなったというか、少々のことも大目に見られるようになったというか…。とにかく、私の中で何らかの変化はあったと思います。

私の変化によって子どもたちが何か変わったかと聞かれたら、正直分かりません。これについて、「嫌われる勇気」には次のように書いてあります。

哲人:…私が変わったところで、変わるのは「わたし」だけです。その結果として相手がどうなるかはわからないし、自分の関与できるところではない。これも課題の分離ですね。…ともかく、他者を操作する手段として自分の言動を変えるのは、明らかに間違った発想になります。

(p.168,169)

あくまでも、変わるのは私だけ。相手を変えようとは思わない
これを意識するだけでも子育てのイライラは大きく減るのではないか、というのが私の今の感想です。

ただ、課題の分離という考え方について頭では分かるんですが、いざ実践するとなると難しいものがあります。まさに言うは易く行うは難し…。特に小さい子どもを持つ親の場合を想像すると、難しさを感じます。
例えば2歳や4歳の子どもの場合、まず、精神的にも身体的にも自立していません。自立とはなんぞや?という疑問はひとまず置いといて、一般的には自立していませんよね。
^^;

精神的に自立していないというのは、例えば善悪の区別がつかないとか、相手の気持ちを考えられないとか、自分の意思を相手にうまく伝えられないとか…。
身体的に自立していないというのは、例えば一人ではうまく手が洗えないとか、服を脱ぎ着できないとか、蛇口がひねられないとか…。生活の基本的な動作がまだうまくできない、という感じの意味です。

自立していないということは、親による何らかの手助けなしには子どもは生きていけないということです。これは上から目線でもなんでもなく、事実でしょう。ということは、子どもの言動によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは子ども自身でもありますが、多くの場合、それに親も含まれるということになります。
つまり、子どもがやったことのツケのほとんどが親に回ってくるということです。

何が言いたいかというと、子どもの課題と親の課題、この二つは切り離しにくくて線引きが難しいんじゃないの?ということです。
だって、子どもが食卓の下に牛乳をぶちまけたって子どもは平気かもしれませんが、結局は誰かがそれを始末しないといけません。だいたいは親がブツブツ文句を言いながら拭く羽目になるんです。子どもが散らかしたおもちゃを片づけるのも親だし、便秘になった子どもを病院に連れて行くのも親だし…(笑)。

でもご安心を。この疑問に対して、アドラー心理学はとってもステキな答えを用意してくれています。
それは他者貢献です。機会があれば、後日触れてみようと思います。

ちなみに、世の中にはアドラー心理学を実践している先輩がたくさんいます。アドラー心理学の実践についてブログに書いている人もいます。

こちらはなおパパさん。バリバリのアドレリアン(アドラー心理学を実践・研究する人)です。↓

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結局、私がトイレのことでイライラしたり、怒ったりすることは減ってきました。「減ってきた」ということは、まだイライラすることがあるということです。ここが実践の難しいところです。以前も書きましたが、私、短気なので(笑)。

課題の分離について自分なりにもっと掘り下げていけば、もっとイライラせずに子育てできるんじゃないかなぁ…と日々考え中です。

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出典:岸見一郎、古賀史健 (2013) 嫌われる勇気 ダイヤモンド社​

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